Stevie Wonder(スティーヴィー・ワンダー)

盲目の天才ミュージシャン!モータウンレーベル所属。

ジャズ・ソウル スティーヴィー・ワンダー・ファースト・アルバム


ジャズ・ソウル スティーヴィー・ワンダー・ファースト・アルバム(原題:The Jazz Soul of Little Stevie Wonder)はタムラ(モータウン)レーベルから1962年に発表された、「リトル・スティーヴィー・ワンダー」こと後のスティーヴィー・ワンダーのデビューアルバムである。

この作品はインストゥルメンタルアルバムである。
モータウンに所属する2人のプロデューサー、クラレンス・ポールとヘンリー・コスビーが主に楽曲を提供しているが、当時12歳のスティーヴィー自身も2曲の作曲に参加した。1曲目に「フィンガーティップス」(Fingertips)のオリジナルバージョンが収録されており、このライブバージョンがのちにファーストシングルとして発売されることになった。


<収録曲>
Fingertips
The Square
Soul Bongo
Manhattan at Six
Paulsby
Some Other Time
Wondering
Session Number 112
Bam


豆知識


多作家として知られるスティーヴィーだが、作品の質に厳しいことでも有名で、今までお蔵入りした曲は数千曲にのぼるという。アルバム制作の際は、収録予定の曲数のほぼ10倍を作曲すると言われており、1976年発表の「キー・オブ・ライフ」は、1974年から1976年までに作曲された約1000曲から選ばれた。

スティーヴィーはCMのための歌は決して作らないことで有名で、当初キリン・FIREのCMソング制作が依頼された時も断り続けていた。しかしキリンビバレッジの社員から「今の日本は大変不景気だ。どうかあなたの歌で日本人の心に火を点けてください」といった趣旨の手紙を受け取ると、急遽CMソング作りを快諾したという。しかし当初スティーヴィーが作ってきた歌は素晴らしい出来だったものの、15秒のCMに使えるサビがなかったためキリン側が書き直しを要求したところ、スティーヴィーは怒り、契約破棄寸前にまでなってしまったという。そこでスティーヴィーが書き直してきたのが「フィール・ザ・ファイア(To Feel the Fire)」である。
スティーヴィーに一曲の歌を作ってもらう値段はおよそ10億円とも言われている(ブロードキャスター放送の際に明らかになった)。
スティーヴィーは自身が尊敬するアーティストとしてデューク・エリントンとナット・キング・コールを挙げており、1975年2月のグラミー賞授賞式では、最優秀アルバム賞受賞後のスピーチで、賞を前年に亡くなったデューク・エリントンに捧げると発言している。
ベック・ボガート & アピスに提供した「迷信(Superstition)」は彼らがリリースするより先にスティーヴィー自身のヴァージョンが全米No.1になってしまい、彼らは割り切れない気持ちになったといわれる。スティーヴィーは後日、ジェフ・ベックのために「哀しみの恋人達(Cause We've Ended As Lovers)」を書き下ろし、仲直りしたという話もある。

「心の愛(I Just Called to Say I Love You)」は、ロンドンでレコーディングをしたときに、隣あわせのルームでレコーディングしたことで親交のあった日本の男性デュオであるブレッド&バターの為に書き下ろされたものであったが、スティーヴィーが自身で歌ったヴァージョンを映画に使用することになったためブレッド&バター側に発売中止を要請し、結果全米1位の大ヒットとなった。なお、ブレッド&バターも「特別な気持ちで」のタイトルで映画のヒットの後にシングルをリリース。ちなみにこの曲の日本語詞は呉田軽穂(松任谷由実)が書き、アレンジは細野晴臣が担当していた。書き下ろされた時点ではサビのフレーズとメロディが決まっていただけだが、スティーヴィーが元ライティングパートナーのリー・ギャレットに著作権上の問題で訴えられたとき、先に書いていたとの証言を、ブレッド&バターが在日アメリカ領事館を通じて行った、と松任谷由実が2007年9月27日に開催されたコンサートのMCで公言した。

1980年代に日本の全盲の中学生(松川さん)との交流がきっかけで、仙台市立加茂中学校を訪問し、歌唱したことがある。
1999年年末「爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル」(フジテレビ)に出演予定であったが体調不良で番組収録直前に来日が取り止めになりビデオのみの出演となった。


プロフィール


アメリカ合衆国ミシガン州サギノー生まれ。本名:スティーヴランド・ハーダウェイ・ジャドキンズ。保育器内での過量酸素(未熟児網膜症)が原因で生まれてすぐに目が見えなくなる。

11歳の時、モータウン社長の前で歌と演奏を披露しレーベルに契約、2年後に初アルバム「フィンガーティップス」を発売(当初は「リトル・スティーヴィー・ワンダー」名義)。全米でNo.1シングルとなり、一躍有名になる。わずか12歳でデビューしたためビートルズのメンバーとは年齢が離れているにもかかわらず、ほぼ同等のキャリアを持っている(後年、スティーヴィーはポール・マッカートニーと「エボニー&アイボリー」で共演)。

1970年に、モータウンから自作のプロデュース権を獲得し、音楽出版会社「タウラス・プロダクション」を設立。自身の新たな音楽を模索していたある時、ロバート・マーゴレフとマルコム・セシルの二人のエンジニアによるユニット「トントズ・エクスパンディング・ヘッド・バンド」のアルバム「ゼロ・タイム」を聴き、全編に使われていた、当時開発されたばかりのモーグ・シンセサイザーに感銘を受ける。以後、スティーヴィーはシンセサイザーを駆使し、殆どの楽器を自分で演奏するアルバム作りのスタイルを確立してゆく。

1973年、従兄弟の運転する車に同乗中、交通事故に遭う。この事故の後遺症で、味覚、嗅覚を失うが、その後のリハビリが功を奏し、ほぼ完全に回復。この体験より、慈善活動や平和活動に目覚め、1980年代には南アフリカのアパルトヘイト政策に反対する歌、公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師に対し、敬意をはらう歌を発表する。
1976年には2枚組のオリジナルアルバム「キー・オブ・ライフ (Songs in the Key of Life)」をリリース。このアルバムは当時全米アルバムチャート14週1位となる大ヒットになり、スティーヴィーの最高傑作の呼び名も高い。また、この年のグラミー賞の最優秀アルバム賞も受賞した。

1984年の映画「ウーマン・イン・レッド(The Woman in Red)」のサウンドトラックに用いられた「心の愛(I Just Called to Say I Love You)」は、米英で大ヒットするとともにアカデミー歌曲賞、ゴールデングローブ賞を受賞した。
1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、ウィ・アー・ザ・ワールドのブリッジ部分でリードボーカルをとった。
ワンダーと交際して別れた女性が「ワンダーから一生交際するとの約束を反故にされた上に、性病を感染した」として日本円で約39億円の慰謝料を求める裁判を起こした。ワンダー側も破局後に女性がワンダーの家具等の資産を勝手に持ち出したとして訴訟合戦となり泥沼化した。

主に、クラビネット等をプレイしながら歌うことがステージでは多いが、シンセ・ベースを含めたシンセサイザー、ピアノなどキーボード一般と、ドラム、ハーモニカなどもスタジオ録音、ライヴにかかわらずこなし、かつてはベースもプレイするなどのマルチプレイヤーとしても有名。

彼の非凡な音楽センスは、物心つく前から目が見えない代わりに神が与えたと称される。単なるブラック・ミュージックの枠を越え、さまざまなジャンルの音楽を違和感無く自身の音楽に消化してしまうことから、異ジャンルの音楽家からも尊敬を集めている。また、視覚障害や音楽的素養などの共通点があることから、しばしばレイ・チャールズと対比される。

政治活動にも積極的に参加し、2000年のゴア対ブッシュの大統領選でもフロリダ州にかけつけ民主党のゴアを支援。2008年の大統領選でもオバマ氏の強力なサポーターとして、党大会などに参加した。オバマ大統領の就任式のイベントでも何度もステージに立ち人気曲を披露した。

2009年12月、国連平和大使に任命。